Ernesto Nazarethについて
エルネスト・ジュリオ・ジ・ナザレ Ernesto Júlio de Nazareth(ナザレのレにアクセントがあるのでナザレーと記してもいいと思う、原語はNazarethではなくNazareと表記している資料もある)は1863年3月20日、リオデジャネイロに生まれた。母親はピアノが弾け、幼い頃より彼は母よりピアノを習い、モーツァルト、ベートーベン、ショパンなどを教わった(これらの作曲家ではショパンが一番好きだったとのこと)。11歳の時に母親は32歳の若さで亡くなったが、彼はその後もピアノの勉強を続け、作曲を習った。14歳の1877年に作ったピアノ曲《あなたはよく知っている! Você bem sabe!》は翌年、出版社Casa Arthur Napoleãoより出版された。16歳の時には初のリサイタルを開いている。1881年からは米国出身の作曲家・ピアニストのLucien Lambert (1828–1896)に師事したが、しばらくしてLambertはパリに行ってしまったためレッスンは長続きしなかった。
1886年、ナザレはTeodora Amália Leal de Meirelles (1852-1929) と結婚。後にEulina、Diniz、Maria de Lourdes、Ernestinhoの4人の子どもをもうけた。生計を立てるために彼はピアノ教師をしたり、ダンスホール・映画館・楽器店などでのピアノ弾きをした。この頃のナザレ一家の家計は苦しく、1893年には(後に有名になる)《ろくでなし Brejeiro》の著作権を、現在の物価で2万円弱くらいの値で出版社に売り渡している。1907年には国立銀行の帳簿係の職に就くが、直ぐに辞めてしまったと。
1909年8月、リオデジャネイロの繁華街に映画館「シネマ・オデオン」が開館した。ちょうど1910年にナザレはシネマ・オデオンから僅か30メートルの所に引っ越していて、1910年よりシネマ・オデオンのロビーでピアノを弾き始める。当時レコードはまだ普及しておらず、映画は無声映画であり、「生演奏」がほぼ唯一の音楽を聴く機会であった。ナザレのピアノ演奏は人気を博し、客はナザレのピアノを聴く為に映画の開演時間の1時間前にはシネマ・オデオンにやってきたとのこと。いつしか新聞などでナザレは「タンゴ・ブラジレイロ王 Rei do Tango brasileiro」と呼ばれるようになっていた。1912年には発明されて間もないレコード録音が行われ、ナザレはシネマ・オデオンの演奏仲間のフルーティストPedro de Alcântara (1866-1929) と共演して《お気に入り Favorito》と《オデオン Odeon》を収録した。
1910年から1917年まで、ナザレはリオデジャネイロの楽器店Casa Mozartのピアノ弾きとしても働いた。シネマ・オデオンでのピアノ弾きは1913年に一旦止めるも、再び1917年から1918年まで小編成の楽団と共にシネマ・オデオンでピアノを弾いた。そこではヴィラ=ロボスもチェロを弾いていた。1919年から1925年頃までは楽器店Casa Carlos Gomesでも働いた。ナザレが店に居たのは12時から18時までだったと。当時はレコードなどの音源の乏しい時代であり、客は楽譜を買おうと思ったら、店専属のピアニストにまず楽譜の曲を弾いてもらって買うか決めたとのこと。ナザレは店に来た客の求めに応じて、ショパンから自分の曲まで弾いていた。店頭では自分でピアノを弾いてみせる客もいたが、そういった、ちょっとピアノの上手な客がナザレの作品を弾くのを聴いた彼は、よく演奏を遮りこう言ったと、「それはナザレ(の曲)の演奏ではない!」。
1922年、作曲家ルシアーノ・ガレが企画した演奏会「30人のブラジル作曲家」が国立音楽院で行われ、《ろくでなし Brejeiro》、《ネーネ Nenê》、《赤ん坊 Bambino》、《力強い黒人 Turuna》がナザレ自身により演奏された。やっとナザレがクラシック作曲家の仲間入りをした演奏会であった。
1926年4月、ナザレは友人の勧めで生まれて初めてリオデジャネイロを離れ、約一年間サンパウロに滞在。サンパウロやカンピーナスで演奏会を催した。また1930年にはOdeon-Parlophonで再びレコード録音が行われた。
1929年3月に妻が亡くなってから、ナザレは徐々にうつ症状が増悪していった。1932年1月5日にはリオデジャネイロのEstudio Nicolasで初めての、ナザレの作品のみによる演奏会が行われ、彼は自作の15曲を演奏した。また同月からブラジル南部へ旅行し、ポルトアレグレ、ロザリオで演奏会を催し、リベラでウルグアイに入国し、モンテビデオまで行った。しかしその頃には健康状態は悪くなり、難聴にもなり殆ど喋れなくなってしまったと。3月にリオデジャネイロに戻ったナザレは第4期梅毒による神経障害と診断され、同年に彼はPraia Vermelha神経精神研究所に入院。翌1933年にリオデジャネイロ郊外のジャガレパグアにあるJuliano Moreira保護施設に入所した。当時、ペニシリンはまだ実用化されておらず、ナザレは「マラリア療法」を受けたらしい。(「マラリア療法」とは梅毒トレポネーマが高熱に弱いことを利用して、患者をわざとマラリアに感染させ、その高熱で治療するという危険な治療法である。)1933年に入所中のナザレを訪ねた音楽家Mozart de Araujoによると、ナザレは「今度のカーニバルで大ヒットするマーチを作曲したよ、曲名は《Estás maluco outra vez?...》だ」と語っていたと。
1934年2月1日、彼は保護施設を抜け出し行方不明になった。2月3日のリオデジャネイロの新聞には「2日前にジャガレパグアの精神保護施設から、白いズボンとパジャマ姿の、年は70歳くらいの白髪の男が行方不明になった」とナザレの失踪が掲載された。そして2月4日の午後、"Cachoeira dos Ciganos" の滝のそばの森で(または滝の水に浸かってという説もあり)ナザレの遺体は発見された。司法解剖が行われ、溺水死であったとのこと。
ナザレは知られているだけで約220曲の作品を残しているー彼は即興演奏の名手でもあり、約220曲という数字も彼が生涯作り、弾いた膨大な作品のうち楽譜に残した作品を数えたに過ぎないともされている。作品には最初から歌曲として作られたものが一部あるが、大部分はピアノ曲(後になって歌詞がつけられた曲もあり)である。ポルカ Polka、ワルツ Valsa、ショッティッシュ Schottisch などの踊りのリズムから成る曲については、ポルカは初期の作品に多く愛嬌たっぷりで、ワルツはナザレの繊細な歌心を余す所なく表現した美しい作品が多い。しかし何と言ってもナザレを特徴付けるジャンルはタンゴ Tango またはタンゴ・ブラジレイロ Tango brasileiro と題された多数の作品で、正に「ブラジルの魂」そのものといった作品ばかりである。ちなみにナザレの作品においてのタンゴは、あの有名なアルゼンチンタンゴとは全くとは言わないまでも異なったもので、ヨーロッパのポルカと、キューバのハバネラと、ブラジルで19世紀に流行したマシーシ Maxixe(マシシェ)のリズムが融合したものと言えよう。ナザレは自分の音楽が単なる踊りの伴奏ではなく、「聴く」のを目的とした音楽として認められることを常に望んでおり、そのため踊りのイメージの強いマシーシという言葉を自作につけるのを嫌っていたらしい。(ナザレは1907年にマシーシと副題の付いた《デンゴーゾ(気取った男)Dengoso》という曲を作曲し、この曲に自分の本名を出すのを嫌い "Renaud" というペンネームで発表した―とされていたが、近年の研究でこの曲はナザレの作曲ではなく、ブラジルの作曲家João Francisco da Fonseca Costaの作曲であることが判明している。)またナザレの音楽はショーロ Choro にも分類されるが、ナザレ自身は自作のタンゴ(またはタンゴ・ブラジレイロ)はショーロとは異なると言っていたらしく、テンポはタンゴ・ブラジレイロが一拍=80/分なのに対して、ショーロは一拍=100/分だとしていたらしい。とは言えナザレのタンゴと呼ばれる作品の中には《カリオカ Carioca》のようなゆったりとしたものから、《フォン・フォン! Fon-Fon!》のようなかなり速いテンポのものまであり、テンポによる分類は困難であろう。更にナザレのタンゴには以下に示す色々な呼び名がある。
- Tango:《Brejeiro》、《Favorito》、《Fon-Fon!》、《Nenê》、《Odeon》など多数
- Tango brasileiro:《Escorregando》、《Perigoso》など多数
- Tango de salão:《O alvorecer》
- Tango de massada:《Atlântico》
- Tango característico:《Batuque》、《Digo》、《Mesquitinha》など
- Grande tango característico:《Turuna》
- Tango argentino:《Nove de Julho》
- Tango carnavalesco:《Fora dos eixos》、《Jacaré》、《Tudo sobe!...》
- Tango meditativo:《Por que sofre?...》
- Tango-habanera:《Maly》
- Tango (estilo milonga):《Paraíso》
以上より結局の所、タンゴ、マシーシ、ショーロという言葉は重なる部分が多く、違いを議論してもキリがないように思える。ナザレの音楽は、分類など細かいことはほっておいて純粋に楽しむのが一番いいように思えます。
ナザレは音楽院などの高等音楽教育機関に通ったことがなく、ましてや留学など出来なかった。(ナザレと同年代の作曲家のフランシスコ・ブラーガ、アレシャンドリ・レヴィ、アウベルト・ネポムセノなどは皆ヨーロッパ留学を果たし有名になった。)そのためかナザレは天性の歌心、優れたリズム・和声感覚を持っていながら大曲は全く作らず、管弦楽曲も書かなかった。ヴィラ=ロボスは「ナザレこそブラジルの魂を真に具現する音楽家だ」と讃えつつ、「彼が管弦楽法などの勉強をしっかりしていればよかったのに‥‥」と残念がっていたとのこと。確かに、もしナザレがヨーロッパ留学でもしていたならば、ブラジル風味溢れる立派な管弦楽曲とか、ピアノ曲にしてももっと本格的な大曲を書いていたかも知れない。でも逆にそういった難しいアカデミズムの影響を受けなかったことによりナザレは純粋な歌心を持ち続け、あの素敵な数々のタンゴ・ブラジレイロを書けたのかも知れないと思うと、人生ってめぐり合わせだな~としみじみ感じます。