José Rolónについて

 ホセ・ロロン・アルカラス José Rolón Alcaraz は1876年6月22日、Zapotlán el Grande(現在のハリスコ州グスマン市)に生まれた。出生年は資料によっては1878年や1881年、1883年だったりで(どれも6月22日生まれなのは一致しているが)、これは彼の長女Marialuisaが、自分の父を若く見せかけるために生年を後にずらしたという説がある。

 ホセ・ロロンの父は地元の楽団の指揮者で、最初は父から音楽を習った。一時はZapotlánの神学校で数学、天文学やギリシャ語、ラテン語を勉強した。が、父が病気の時に父の楽団のサルスエラ公演指揮の代役を務めたのを機会に、音楽家になることを決心したらしい。1898年に彼はMaría Mercedes Villalvazoと結婚し、1899年には長女Marialuisaが生まれた。しかし1900年に、妻が二女Mercedesの出産時に死亡。母のいない2人の幼い娘を抱えたロロンは義父のTranquilino Villalvazoの援助で州都グアダラハラに移り住み、音楽の勉強を行った。

 1903年よりロロンはパリに留学。モーリッツ・モシュコフスキに師事し、ピアノと作曲の勉強を続けた。留学中に彼はモシュコフスキの女弟子であるEugenie Bellidoと恋仲になり、再婚して2人の娘をパリに呼び寄せる計画であった。しかし1906年に二女Mercedesがメキシコで突然亡くなり、急遽ロロンはメキシコに帰国した。

 グアダラハラに戻ったロロンは、フランスへ再度渡る計画を義父の反対により断念。1907年、地元グアダラハラの音楽家達と共にロロン・アカデミー Academia Rolón(後にAcademia de Música de Guadalajara)という音楽学校を設立し、その後20年に亘り多くの生徒を教育した。また1915(または1916年)にグアダラハラ交響楽団を創立した。

 1927年、教え子のピアニストAna de la Cuevaと再婚。新妻を連れて彼は再びパリに留学し、エコールノルマル音楽院でポール・デュカスやナディア・ブーランジェに作曲を師事した。パリの留学仲間にはポンセもいた。

 1929年にメキシコに戻った彼はメキシコ国立音楽院の作曲科教授に就任、1938年には同院の院長を務めたが一年弱で退任している。

 1935年には代表作、ピアノ協奏曲を完成。翌1936年に、ホセ・ロロンの指揮、Ana de la Cuevaのピアノで初演された。

 1945年2月3日、メキシコシティで死去。

 ホセ・ロロンの作品は管弦楽曲が主で、《交響曲ホ短調》(1918-1919)、《交響的スケルツォ こびと達の祝宴 El festín de los enanos》(1925)、《交響的組曲 サポトラン Zapotlán》(1929)、《交響詩 クアウテモック Cuauhtémoc》(1929)、《ピアノ協奏曲》(1935) などがある。その他、《ピアノ四重奏曲 作品16》(1912)、《弦楽四重奏曲 作品35》(1935)、多数の歌曲などあり。ホセ・ロロンのピアノ曲はほとんどが知られていない曲ばかりなのですが、《3つのメキシコ先住民の舞曲集 Tres danzas indígenas mexicanas》などはメキシコ風味に満ちた面白い作品です。

 

José Rolónのページへ戻る