Simeón Roncalについて

 Simeón Tadeo Roncal Gallardo(シメオン・タデオ・ロンカル・ガジャルド)は1870年4月20日、または21日にスクレで生まれた。スクレは標高2700m、ボリビア南部の都市で、1826年のボリビア独立時の初代大統領Antonio José de Sucreの名からきており、今も憲法上の公式の首都になっている所である。(実際に政府などがあって首都として機能しているのはラパスだが。)彼の父は教会の聖歌隊の指揮者で歌手でもあり、父親から音楽を習った彼は、すでに9歳の時にはスクレのカテドラルの歌手兼オルガニストを務めていたとのこと。後にはシメオン・ロンカル自身が聖歌隊の指揮者に就任している。若い頃よりクエッカなどのピアノ曲の作曲を行っていた彼は、スクレの他の作曲家達ーMiguel Angel Valda、Telmo Solares、Belisario Zárate、José Lavadenzーと共に民族主義による作曲を進めるグループを結成した。(ロシアの五人組に対抗していたらしい。)

 1912年、シメオン・ロンカルはポトシに移る。ポトシは標高4000mの町だ。ポトシではPichincha高等学校で音楽を教えた。また1917年には "Círculo de Bellas Artes de Potosí(ポトシ芸術サークル)" を主宰している。演奏会での寄付などにより、彼はアルゼンチンのブエノスアイレスへ演奏旅行に行ったが、ブエノスアイレスでの聴衆の評判はあまり良くなかったらしい。またブエノスアイレスでは彼のピアノ曲 "Kcaluyo indio Nº 2, Nº 3" が出版された。

 1936年に彼はラパスに移住。時々、自作の演奏会を催したりして余生を送ったとのこと。また、当時放送が始まったラパスのラジオ局から彼のピアノ演奏が放送された。

 1953年1月12日(または13日)にラパスで死去した。

 シメオン・ロンカルはCuecas、Bailecitos、Kaluyos、Marchas、Tonadas、Valsesなどの様式により数々のピアノ曲を作曲した。その中でも20曲から成るクエッカ集は彼の代表作で、構成も和音も単純ながら、ボリビア民謡の様式に従った風味満点の小品集である。彼の作品はフォルクローレの音楽家達によりアンサンブルに編曲され、今やボリビアではフォルクローレのクラシックナンバーとして演奏されていて、La huérfana Virginia、El olvido、Soledadなどが(ボリビア国内でだけの話だが)有名なよう。それに比べオリジナルのピアノ独奏版は殆ど弾かれることがないようで、CDも僅か。シメオン・ロンカルのピアノ曲のオリジナルの楽譜を見ると、左手のオクターブやアルペジオ混じりの伴奏が結構難しく、彼が生前「スルド(zurdo)=左利き」という愛称で呼ばれていたのも頷ける。アマチュアのピアノ愛好家が弾くにはやや難しいのだが、聴いている分には肩の凝らない楽しい小品ばかりである。貴重なボリビアのピアノ音楽作曲家、シメオン・ロンカル。オリジナルのピアノ版が日本でも弾かれる日が来るでしょうか?。

 

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